2005年2月5日

早朝、日本の家族からの祖母永眠の電話で目が覚めました。外国に住んでいる私には、お通夜やお葬式に出席できないため、こうした状況はいちばん心苦しいのです。父が亡くなって、日本へ飛んだ時の、苦い経験を思い出しました。

子どもの頃、よく遊びに行った三鷹市牟礼の祖母の家の様子を、一日中思い起こしていました。祖母の家でよく聞かせてもらった、「ローハイド」のドーナツ盤の音楽、そして子どもには楽しい世界だった、小さな池のある庭や飼い猫を思い出しながら。昭和30年代の私は、よく病気をし、車に乗るたびに酔ってしまう、とても弱い子どもでした。

あのころ世田谷区の烏山と牟礼を結ぶバスは、ボンネット式で、まだ切符を売る車掌がいたことを、うすぼんやりと覚えています。中央線の吉祥寺駅がまだ高架ではなく、踏み切りがあった時代です。貸し本屋さんで50円で漫画本を借りては、必死で読み漁り、わら半紙で自分の漫画雑誌を作っていました。

当時はまだあまり人が多くなかった井の頭公園や動物園に、祖母によく連れて行ってもらったことを、思い出しています。関東大震災と太平洋戦争を経験した祖母にとって、この94年間の日本の急激な変化は、どれほど大きなものだったでしょうか。あの頃の日本は、いまほど豊かではありませんでしたが、それだけに、社会全体が停滞せず、前向きで元気があったように思います。心からご冥福を祈ります。